2013年12月31日(火) | プライベート
父のこと
あと数時間となった今年1年を振り返ってみると、やはり私にとって一番大きな出来事は父の死でした。
父は3年前、もともとC型肝炎を患っていた肝臓にガンが見つかり、その時すでに、手術しなければ余命3ヵ月と宣告されました。
幸い患部を切除する手術に成功し、その後は何度か入退院を繰り返しながら、ガンと闘う生活となりました。
今年10月に病状が悪化したとのことで急きょ帰省しましたが、その時は意外と元気そうで一緒に食事もできるほどでした。
ところがその月の終わりに再度の入院。11月初めに私が韓国旅行に出かけた先で、母から「もう危ないかもしれない」との連絡を受けたのです。
韓国から帰国してすぐ、妻と帰省し病院に見舞いました。
すでにベッドに寝たきりで酸素吸入を受けている状態でしたが、意識はしっかりしていて、韓国旅行の報告も聞いてもらうことができました。
しかし、東京へ戻って5日後の11月18日、父は帰らぬ人となったのです。
葬儀は、父の遺言で家族葬としましたが、親戚関係だけで約30名、どこから聞いたのか生前お付き合いのあった方々が40名ほど、総勢約70名の方々にご参列いただき、立派な葬儀をとりおこなうことができました。
父は安保闘争の中で日本共産党に入党し、党員としての生涯を全うしました。
地元の愛知県刈谷市で、県議会議員選挙、市議会議員選挙、市長選挙に何度か挑戦しましたが、当選したことはありませんでした。
日本共産党中央委員会が1983年に発行した「あえて困難に挑んだ “開拓選挙” の担い手たちの手記―日本共産党の旗をかかげて」という書籍の中に、父の手記が載っています。
私はお別れの際、この本の父のページを切り取り、棺の中に入れてあげました。
父の活動の中で特筆すべき功績は、刈谷市に置かれていた米軍依佐美基地を撤去に追い込んだたたかいです。
戦後、刈谷の依佐美には8本の鉄塔がそびえ立つ米軍基地が置かれました。この鉄塔が、米軍の潜水艦に指令を出す危険な通信基地であることを突き止め、監視し、撤去を迫る運動を主導したのは父でした。
1993年に愛知県で開かれた日本平和大会には私も参加し、依佐美基地を「人間の鎖」で包囲して「米軍基地は撤去を」と訴えました。
その後、依佐美基地は94年に日本に全面返還されることになったのです。
晩年は党活動の第一線から退き、趣味の中国語やパソコン、ビデオ編集などに凝っていたようですが、自身が毎日欠かさず更新していたブログでは、病状が悪化し入院することを登山に例え、「山登りは苦しい」とか「なるべく早く下山したい」と書き綴っていました。
そのブログで突如「終結宣言」が掲載されたのが今年の8月16日。猛暑で体調を崩し、ブログの更新もままならなくなったのだと思います。
私が18歳で東京に移り住んでからは、ほとんど話をする機会はありませんでした。
高校の頃までは、親に対する反発もあって日本共産党については否定的だった私が、大学1年の冬に入党し、1年後にそのことを報告した時、何より喜んでくれたのが父でした。
今月の22日に、35日の法要(東京なら49日ですが)を済ませ、母もようやく肩の荷が下りたようです。
野々山寛、享年78歳。
これまで、本当にありがとう。そして、安らかにお眠り下さい。