のの山 けん(野々山 研)プロフィール
- 日本共産党東京都北区議会議員
- 1963年 愛知県刈谷市生まれ。59歳
- 1988年 東京外国語大学イタリア語学科を卒業し、民主青年同盟北地区委員長に。1995年より同東京都委員長
- 1998年 より党北地区委員会で団地・マンション宣伝組織者、財政部長などを歴任。東京12区(小選挙区)候補者として05年総選挙をたたかう
- 2007年、北区議会議員に初当選。2011年2期目、2015年3期目、2019年4期目に当選
- 現在、区議団長、文教子ども委員、地域開発特別委員、党北地区副委員長
- 趣味は、映画・クラシック・K-Pop鑑賞。柔道2段。家族は妻
- 活動地域は、赤羽1~3丁目、志茂1~5丁目、岩淵町、赤羽南1・2丁目
高校時代
映画と柔道に熱中 平和運動も
1963年5月、愛知県刈谷市で生まれました。共働きで電電公社(今のNTT)に勤めていた共産党員の両親は、勤労者にちなんだ名前をと考え、刃物を研ぐ職人の労働から「研」と名づけました。2人兄弟の兄は、農民の労働から「耕」(こう)という名前をもらいました。
当時、刈谷市には8本の鉄塔がそびえ立つ米軍依佐美(よさみ)基地が置かれていました。小学2年から「柔道一直線」にあこがれ柔道を始めましたが、中学校で柔道部に所属し、よく鉄塔までランニングしたものです。下から見上げると250メートルの鉄塔が空にゆらゆらと揺れ、不思議な感覚に陥ったものでした。この鉄塔が、実は米軍の潜水艦に指令を出す危険な戦争基地であることを知ったのは、高校卒業まぎわの時期でした。のちに愛知県で開かれた日本平和大会(93年)に参加した私は、依佐美基地を「人間の鎖」で包囲し、「米軍基地は撤去を」と訴えました。その後、依佐美基地は94年に日本に全面返還されました。
高校時代には、柔道と映画にハマりました。部活が終わると、週末には名古屋まで出かけ映画館をはしご、3本500円の映画館でジェームス・ディーン3部作に熱狂するなど、年間60本の映画を鑑賞するような高校生でした。
大学時代
自治会を再建 日本共産党に入党
1982年春に、北区の西ヶ原にあった東京外国語大学へ入学するために上京しました。「ヴィスコンティやフェリーニなど大好きなイタリア映画を字幕なしで観たい」という理由で、イタリア語を専攻しました。
大学でも柔道部に入り、週4日の練習に汗を流しました。対抗戦や試合にも多く出場し、東京都国公立大学個人戦2段の部で、第3位に入賞したこともあります。
1年生の秋に、当時崩壊状況にあった外語大の学生自治会を建て直そうという自主的な学生の運動に参加、「学生の要求を実現するためにはどうしても自治会が必要だ」「自治会があれば大学当局とも対等に交渉ができる」と仲間から熱く説得され、次第にのめりこんでゆきました。授業前のクラスに飛び込み、学生の前で「自治会をつくろう」とアジテーションを繰り返す毎日。思い返せば、演説はこの頃から鍛えられていたように思います。ねばり強い運動で、1年後にはついに自治会を再建、私は初代書記長に選出されました。
こうした学生運動を通じて、日本民主青年同盟(民青同盟)と出合い82年12月に加盟、同じ月に日本共産党にも入党しました。「国民の苦難あるところ日本共産党あり」という立党の精神が、「学生の願いを実現したい」と無我夢中でがんばっていた気持ちとピッタリ重なって、入党を決意させる決め手となりました。
その後は、大学内で民青同盟の班長、日本共産党の支部長などをつとめ、たくさんの仲間たちといっしょに活動する、充実した大学生活を送りました。
青年運動
東京の責任者として民青同盟の先頭に
大学卒業まぎわ、党の北地区委員長をしていた岩崎さんから「日本共産党で働いてほしい」と要請がありました。当時はバブル全盛期で就職口は引く手あまた、企業をまわった学友たちが「生まれてこのかた、自分がこんなに評価された時はない」と就職活動を楽しんでいるような時期でした。企業で働く気がなかった私は、即座に党専従になることを決意し、在学中の1987年秋から「赤旗」北出張所に勤務しはじめました。
3ヵ月ほどして今度は、民青同盟の専従に、との要請。民青同盟は、日本共産党の指導と援助をうけながら、青年の要求実現と社会変革のために活動する全国的青年組織です。88年、民青の北地区委員長に就任した私は、地域や職場の仲間とともに、青年への家賃補助を求める請願署名運動や自衛隊十条基地解放運動などをはじめ、青年運動に全力をあげました。90年から3年連続で、反戦平和を求めるロックコンサートにもとりくみました。
95年からは、民青東京都委員会で活動することに。この年、阪神・淡路大震災、薬害エイズ、フランスの核実験、沖縄の米兵による少女暴行事件と、社会を揺るがす大きな事件があいつぎ、多くの青年がボランティアや抗議行動にたちあがりました。私は都委員長という大任につき、無我夢中で運動の先頭に立ちました。96年9月には、足立区の青年たちといっしょに区長選をたたかい、吉田万三さん当選の一報に抱き合って喜びました。
97年12月に都委員長を退任、民青同盟を卒業しましたが、民青での活動はまさに私の青春時代そのものでした。
議員として
生活相談、住民運動 願い実現へ奮闘
1998年1月から、日本共産党北地区委員会に勤務することになりました。団地・マンション対策責任者や財政部長などの任につき、青年運動の時代からかかわってきた原爆被爆者の証言を次代に受け継ぐ活動を青年学生部長としてサポート。この運動は、いまなお若者自身の手による運営が続けられています。
04年3月には、2年の交際期間を経て現在の妻と結婚。互いを認め合い、男女平等を大切にしようと、夫婦別姓、家事も分担しています(妻が掃除・洗濯、私は食事を担当)。
05年、小泉首相(当時)が、突然、解散・総選挙にうってでました。「郵政解散」といわれたこの選挙で、私は東京12区(北区・足立区西部)への出馬を要請されました。青天の霹靂(へきれき)でしたが、国民に痛みをおしつける政治、まちがった「構造改革」に黙っているわけにはゆきません。1つの議席を争う小選挙区で「たしかな野党」の代表として選挙戦をたたかいました。郵政造反組の元自民党候補と、自民党が推す公明党候補が立候補する注目選挙区としてテレビや新聞の取材が連日のように入り、TBSテレビ「みのもんたの朝ズバッ」での生討論にも出演、国民の立場にたった論戦をつらぬきました。当選にはいたりませんでしたが、初挑戦で2万6千票を超えるご支持をいただきました。
06年からは党地区副委員長、同政策委員長として活動するとともに、区議選の候補者になりました。07年4月の北区議会選挙では3,176票を獲得し初当選。その後、19年4月まで4期の当選を果たしました。区民と志茂・赤羽地域のみなさんの願いにこたえるために、全力でがんばっています。