2012年5月25日(金) | プライベート
SFでも幻想でもない現実
話題の公演、青年劇場の「臨界幻想2011」を、新宿・紀伊國屋サザンシアターで鑑賞しました。
原発問題に真正面から取り組んだ作品で、期待に違わぬ構成、演出、演技にうならされました。
「臨界幻想」は、もともとは30年前に書かれ上演された戯曲ですが、東日本大震災と福島第1原発事故をふまえて新たに改訂、「臨界幻想2011」として上演されることになりました。
当時としては近未来の物語という設定だったのかもしれませんが、3.11を体験した私たちには、もはやSFでも幻想でもなく、まぎれもない現実として身に迫ってくる作品でした。
富む原発の町 心貧しき
原発で働く青年の死をきっかけに、その真相に迫る家族や住民の行動を通じて原発が持つ構造的な問題を一つひとつ浮かび上がらせてゆくのがこの作品の醍醐味ですが、中でも原発マネーによる住民の懐柔の描写は出色です。
息子の死に疑問を抱いた母親が行動にのりだした途端、元請である日本電力から1000万円が入った茶封筒が届きます。不審に思ってこれを突っ返そうとすると「あなたと娘さんの仕事先は、私たちが面倒をみてあげる」と日電の総務課長。疑問をもつ住民には、口止め料や雇用のあっせんで口封じというのは電力会社の常とう手段なのでしょう。
加えて、敦賀市の高木孝一元市長を登場させての演説場面では、実際におこなわれたスピーチを効果的に使って、原発誘致自治体がいかに「ホクホク」の利益をむさぼっているかを暴きます。この演説の締めの言葉は、
「えー、その代わりに100年経って片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか…。こいうふうに思っております」。
もはや驚きを通り越して、憤りを抑えることができません。
こうして原発マネーに蝕まれた自治体を「富む原発の町 心貧しき」と表現する一幕のラストは深く余韻を残します。
原発労働者のリアルな実態を告発
普段はあまり意識することのない原発労働者の実態をリアルに描き切ったことも、原発に対する説得力ある告発となりました。
警告音をも無視し、放射線が充満する原子炉内で続けられる作業。被ばく線量のデータは会社が改ざんしていました。主人公の青年を助けようとしたのは、原発から原発へと流れ歩く出稼ぎ労働者でした。
劇中で描かれる原発労働者の非人間的な労働実態に、福島第1原発の事故処理にあたる原発労働者の姿がダブって映ります。
外には「安全」を宣伝しながら、現場を支えるのはまさに「使い捨て」の労働者という対比が見事です。これは原発のみならず、現代日本社会の縮図ととらえることもできるのではないでしょうか。
真理の力が闇を突く
富と権力によって隠され続けてきた原発産業の実態。その闇を突き破ったのは、息子の死の真相を知りたいと一心不乱に突き進む母親と、それを支える人々の行動でした。
大金に惑わされる父親や、学校から圧力がかかり原発反対運動をちゅうちょする娘の恋人など、まわりでも動揺が起きます。それでも愛する息子の死にどうしても納得がゆかない母親は、決してあきらめず、泣き寝入りせず、真実に向かって進んでゆきます。時にユーモアを交えながら、何者をも恐れず猪突猛進する姿に胸を打たれます。
放射能もれ事故が起きても、最後まで現場に残って記事を書くのだと仁王立ちする新聞記者の存在は「ペンは剣よりも強し」の格言を思い起こさせ、批判を忘れた現代の巨大メディアに警鐘を鳴らします。
真理の力は何よりも強い――太く大きなテーマが、この作品を貫いています。
全国規模での再演をぜひ
原発の今後をめぐって大きな岐路に立たされている今だからこそ、一人でも多くの人に観てもらいたい作品です。
劇団をはじめ関係者の努力で、全国規模での再演が実現することを願ってやみません。