活動日誌

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中島武敏さんの思い出

本日付の「しんぶん赤旗」で、中島武敏さんの訃報に接しました。

旧東京9区(北区・板橋区)選出の衆議院議員として活躍された中島さん。心から哀悼の意を表します。

赤羽駅前

1972年12月、旧東京9区で初当選し、赤羽駅東口で黛四郎・中川大一区議とともにあいさつに立つ中島武敏さん

私が入党した1982年、中島さんは日本共産党の東京都委員長を務めていました。

急きょ、代役での就任と記憶していますが、今考えても現役の国会議員と都委員長との兼務は、大変なご苦労だったと思います。

1986年7月の総選挙、私はまだ学生党員でしたが、東京9区の選対本部で手伝いをさせていただき、中島さんの選挙をたたかいました。

その時の主な仕事は、選対本部長の書いた手書き文書をワープロ打ちすることでした。

当時はまだパソコンはおろか、ワープロも出始めの頃でしたが、選対本部からの指示や部内資料のニュース原稿を夜中までジャカジャカとワープロで打って、選対部員に配付したりしていました。

この選挙で中島さんは見事トップ当選を果たしたのでした。

当選

1993年7月の総選挙で6期目当選のバンザイをおこなう中島武敏さん

その後、私は民青同盟の専従者として活動することになり、夏と冬の年2回、民青へのカンパのお願いに、中島さんのお宅へ直接うかがっていました。

いつもはご家族の方が対応して下さるのですが、ある時、中島さんご本人が出てきました。

その瞬間、とても緊張したことを覚えていますが、中島さんは私を家の中に招き入れ、郷里の北海道から届いたといって夕張メロンなどを皿に盛り、いろいろな話をしてくれました。

当時、私にとって国会議員といえば雲の上の人。ところが中島さんは、誰とでも気さくに接し、どんな人にも敬意を忘れませんでした。

1993年都議選

1993年7月の総選挙にむけて赤羽駅東口で新年のあいさつに立つ中島武敏さん。隣には、そねはじめ都議候補、飯田幸平都議、中川大一区議、黛四郎区議

中島さんが中選挙区でたたかった最後の選挙、1993年の総選挙の時だったと思いますが、民青同盟の北地区委員会、板橋地区委員会合同で「青年トーク集会」をおこない、中島さんをゲストに招きました。

ここで中島さんは、自己紹介として東京大学学生細胞時代の話を始めました。その頃、中島さんは東大細胞の支部長で、同じ細胞にいた不破哲三さんは後輩だったそうです。

東大構内で上演された劇団の公演をめぐって当時の学生と潜入した警察官とが激しく対立した、いわゆる「東大ポポロ」事件について、中島さんが当事者の一人として、まるで講談のような口調で語ったことを思い出します。

正確にいつかは忘れましたが、私が民青同盟の都委員会で勤務していた時期(95~97年)には、民青の都大会で中島さんに東京選出の国会議員としてあいさつをしていただいたことがあります。

きちんと原稿を用意し、直前まで「これでいいか。間違いないか」と確認をした上であいさつに臨んでくれました。

国会議員としては通算7回の当選を果たした中島さんでしたが、落選も2回経験しました。

90年の総選挙では惜しくも次点となり、結果報告会で「男泣き」した姿が目に焼きついています。

日本の平和と政治革新のために尽くした偉大な政治家、中島武敏さん。その遺志を、私たちがしっかりと引き継いでゆかなければならないと思います。